モンゴル帝国は
13世紀後半、モンゴル帝国は高麗を通して日本に使者を6回も送るが朝廷は全て無視する。1271年にフビライ・ハンは大都に遷都して元を建てると北条時宗は異国警固番役を設置して対決姿勢を露にする。1274年、元は高麗との連合軍を形成して博多湾に来襲して文永の役が起きるが勝敗が着かず撤退を余儀なくされる。日本側は蒙古再来をにらんで九州に防塁を築き防衛力を強化する。1279年に元は南宋を滅ぼし、華北の漢人・華南の南人とモンゴル民族の差別化を図った。そして、1281年に元は高麗・南宋と共に連合軍を組んで日本の再来襲を試みるが、猛烈な暴風によって壊滅的な打撃を受けてこの弘安の役も再び失敗に終わる。こうした二度に渡る元寇を受けて鎌倉幕府は1293年に鎮西奉行を九州に設置して、西日本における統制力の強化に乗り出した。一方で、元寇で軍役に就いた御家人への十分な恩賞給与がなされなかったため、御家人たちは貨幣経済が発達していた中で戦費に窮迫して借金に苦しむようになった。そこで鎌倉幕府は1297年に永仁の徳政令を発布して御家人の所領の質入や売却の停止を促したため、結局御家人の救済には至らず御家人の鎌倉幕府に対する不満は高まるばかりであった。
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フビライ・ハンは日本襲撃を試みながらも、民間レベルの貿易は認めていた。それでも日本の大陸侵攻を恐れるあまり日本の商人と元の官吏との間で傷害事件も発生し、それが後の倭寇の出現の一要因にもなった。